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仕事は、コピーとお茶くみ。産後8週で職場復帰。それでも働き続けた理由とは? 男女雇用機会均等法施行前に入社して勤続42年、田平さん・秋子さんに聞きました【1】

1986年の男女雇用機会均等法施行前に入社し、1992年の育児休業法施行前に出産を経験。——約42年前、女性が働くということの状況が今とは大きく異なる時代に三菱ケミカル株式会社に入社した、田平操子さん、秋子敦子さん。現在はそれぞれマネジャー、グループ長というポジションで、部署の業務をはじめDE&I推進にも取り組み、「ふらの女性サミット」の実行委員も担っています。

私、F30プロジェクトの武田は、お二人よりひと回りほど下の就職氷河期世代。育児休業法も施行され、両立への理解も少しずつ広がっていたとはいえ、発展途上の時代を経験してきました。さらにその前を行く田平さん、秋子さんは、「寿退社」が当たり前の時代になぜ働き続ける選択をしたのか。どんな茨の道を歩み、どんな工夫をしてきたのか。そこには、法律や制度を整えることとは別の視点での女性活躍のヒントが隠れているかもしれない、そんな想いでお二人に話を伺いました。まずは、男女雇用機会均等法施行前の入社当時のエピソードから。

<お話を伺った人>

田平 操子たひら みさこさん
三菱ケミカル株式会社 技術本部 設備技術部 企画セクション マネジャー

1981年に一般事務として入社。化学プラント工場内のメンテナンスを手掛けるエンジニアが所属する部署に、いわゆる庶務的な仕事をする女性として男性30人ほどの中に1人だけ配属。そこからキャリアのスタートを切る。


秋子 敦子あきね あつこさん
九州事業所 品質保証部 技術・企画グループ グループ長

1981年に入社。“白衣を着て試験管で分析をする部署”を自ら希望し、工場・製造部内の分析や検査をする品質保証部門に配属。その後、保証業務にシフトし担当の製品や範囲の変遷がありながらも、現在に至るまでずっと品質保証部門に所属している。

<参考>
日本の女性の働き方に関する法整備の歩み

●1986年 男女雇用機会均等法施行
      <採用、配置、昇進などの均等が「努力義務」に>
●1992年 育児休業法施行
●1999年 改正均等法施行(男女雇用機会均等法)
      <採用、昇進などでの女性差別が禁止に>
      労働基準法の女性保護規定撤廃
      <女性の時間外労働の制限や休日・夜間労働の禁止を撤廃>
      男女共同参画社会基本法施行
●2007年 改正均等法施行(男女雇用機会均等法)
      <事業主のセクハラ防止措置を義務化>
●2016年 女性活躍推進法施行
      <女性登用の数値目標設定の義務化>
●2022年 男女の賃金差の開示を義務化

高校卒業後、一般職として入社。用意されていたのは〝女性の仕事〟


昨年の「ふらの女性サミット」でお二人にお会いしたときに伺った、男女雇用均等法が始まる前に入社されて、育休もまだ整備されていない時代を経てきたというお話が印象に残っています。「女性活躍」という言葉がなかった時代からここまで、企業内でさまざまな経験をされてきた先輩方に、今回はいろいろ伺いたいと思います。
まず、ここまで働き続けて、管理職のポジションまでキャリアを積むことを入社当時は想像されていましたか?


いえ、当時はまったく想像してなかったですね。漠然とですが “何か仕事がしたい! 大手の会社に入れば仕事がバリバリできる”と思っていましたが、働き手として女性は単純作業の労働力で一人前には見られていないという感じで、最初に想像していた働き方と現実とのギャップに大きなショックを受けました。悔しかったのをずっと覚えています。


それはお仕事の内容ですか?


そうです! 仕事内容は、コピーとお茶くみや雑用です。だから当然会議にも呼ばれませんでした。


“結婚するまでちょっと働く”みたいな、当時はそういう社会的な見られ方が強かったのですかね?


当時は、女性はだいたい3年で寿退職して、その補充で毎年新入社員が入る、という流れでした。製造部全体では何百人に対して女性は10人~20人。だから製造課の男性はみんな優しいんですよ。「女の子なのにがんばってるね」って、10年くらい言われました。


田平さんはどうでしたか?


私は、雑用以外の仕事がない事がすごく残念でしたが、社会とは関わっていたかったので会社を辞めるという選択肢はありませんでした。でも仕事は全然おもしろくないし、誰も指導もしてくれない。ロールモデルもいないという状況で悶々と悩んでいました。

そんななかで上司が変わっていきます。ある上司が「これできる? あれできる?」というふうにいろいろな業務を私にやらせてくれました。私はそれが嬉しくて一生懸命やっていたら、面談の際にその上司から「田平さんは仕事を全然しないって聞いていたけど、やればできるんだね」と言われました。仕事をしたくてもどうしていいか見出せずに悩んでいたので、裏腹のその言葉はすごくショックでした。


そうだったんですね……。


でもその上司がきっかけで、目の前がぱっと開けて、“こういうふうにやっていけば、この部署のなかで活躍できるんだ”ということが見えてきました。そこからは指示されなくても自分で課題を見つけ提案できるようになり、仕事がどんどんおもしろくなっていきました。まわりからも「よく頑張っているね」と言ってもらえて自分の存在価値が感じられるようになったのが20代後半です。

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「寿退社」の人が多いなか、生後8週で保育園に預けて復帰! 茨の道を選んだモチベーションとは?


お二人は結婚・出産もされています。秋子さんは、いくつの時に結婚されたんですか?


27歳です。当時は社内結婚をして寿退社で辞める方も多く、夫婦で一緒に勤めるケースはレアでした。私は相手が社外の人だったし、辞めなかったんです。で、1年経って妊娠したときに、育休の制度もなかったんですけど、まわりの人に「辞めるのはいつでもできるから続けたら?」と言ってもらったのもあって、生後8週で子どもを保育園に預けて復帰しました。結婚して引っ越した土地なので近所のつながりもなくて、孤独で。社会とつながりたい、会社に戻りたいなという気持ちでしたね。


私は、秋子さんより早くて21歳で結婚しました。今思えば仕事がおもしろくなかったので少なからず結婚に逃避したい気持ちがあったのかもしれません。その後、出産を経て仕事に復帰したのですが、「子どもを産んでまで働くんだね」みたいな感じで職場ではあまり歓迎されていない雰囲気を感じました


休暇は、産前が6週間、産後が8週間。あまり休めなかったもんね。


どうやりくりしていたんですか?


赤ちゃんに母乳を飲ませられないから胸が張るわけですよね。お昼休みに母乳を絞って、冷凍して持って帰ったりしていました。私の場合は、義父母が保育園の送り迎えなど子どもの面倒を見てくれましたので、なんとかなっていましたが、義父母からは「母親が昼間いないと子どもがかわいそうだから仕事を辞めてほしい」と言われ続けましたので、罪悪感を持ちながら働いていました。


秋子さんは産後の復職をどうやって乗り切ったんですか?


私も夫も、結婚したときには母親が他界しており、実家に頼れなかったので生後8週で預かってくれる保育園を探して、夫婦2人で子育てしました。子どもを朝7時に預けて、夜7時に迎えに行く生活をやるのは本当に大変でしたね。


それでも働き続けられたのは、どういう気持ちからだったんですか?


やっぱり社会とつながりたい気持ちがすごくありました。大変だけど、電車に乗って会社を往復する時間が、切り替える時間やリフレッシュできる時間にもなっていましたしね。


そうだよね。


でも、そうやって復帰したにもかかわらず、職場に戻ってもバリバリやれる仕事がなかったんですよね。「こんな仕事のために子どもを預けてるのかな」って悶々とする期間が数年ありました。


90年代の当時は、時短勤務の制度もなかったですか?


はい。フレックスもないし、何もないです。「子どもが熱を出した」と保育園から電話がかかってきたら、朝からその時間まで働いていたぶんが〝なし〟になって、休暇になっちゃう。


半休もなかったですしね。


子どもが病気のときは、休暇扱いになることを承知で、夫婦で半日ずつ出勤したりしてました。


お子さんが大きくなるまでは、フルスロットルで働けないことに悶々とする状況だったのかなと思うんですけど。そのあたりはいかがでしたか?


私はその後離婚をしました。子どもの養育権では揉めたのですが、結局は養育権を得られませんでしたので、毎月一度は子どもには会っていましたが、平日はある意味(仕事に没頭する)時間がたっぷりありましたし、仕事がどんどんおもしろくなっていた時期でもあったので、結果的にはがんばるための時間がたっぷりありました。今みたいに残業規制もそんなになかったですし。

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男性中心の時代を生き抜くコツは「敵をつくらない」「プラスアルファの提案をする」


当時は人によっても、チームによっても、女性の働く環境の捉え方が全然違ったと思うんですけど。


そうだと思います。約30人の男性の中で女性1人という環境でした。皆さん人間的にはとても優しく、私をとてもかわいがってはくれたのですが、一人前の労働力としては見てくれていなかったのでしょうね。「女性は笑顔で、素直なのが一番だよ」みたいな感じで、そこに価値を求められていたというか。


そんなことを今言ったら大炎上ですよね。当時の田平さんと秋子さんはそこに対して違和感を抱いていたんですか?


心中では大変な違和感を持っていましたが、態度には出さずにいました。働き続けたいから、良い人間関係を維持していきたいという思いがあったので。心の中ではいろんな思いはありましたけど。


私も「女の子だから」という特別扱いがすごく嫌でしたが、聞き流しながらやっていました。そのような扱いが気にならない女性もいて、それでうまく回っているところもありましたからね。


女性が能力を発揮しにくい男性中心の環境というのは、令和になった今でもありますよね。これまでいろいろな上司を見てきたお二人に、男性中心の社会で生き抜くためのコツみたいなものがあったらお伺いしたいです。


とにかく〝よい人間関係を作ることを心がけていたかな。男性の上司や同僚を敵にまわしちゃうと、好機会が得られないわけですから。相手を通じてしかチャンスも情報も得られないので、いい関係を作っておくことが得策だと思っていました。


私は、上司が求めるものにもう1つプラスしてアウトプットしようと思っていました。女性ならではの気のまわし方なのかもしれないですけど、上司が求めるものを汲みながら、プラスアルファを出していく調整をずっと続けていましたね。そうやって気を遣いながら生きてきたんですよね。


男性を敵に回しちゃうと、ね。


そこまであからさまではなかったけど、“生意気だ”と思われてしまうと仕事ができない気はしましたね。女性社員が「あの子は気が強いから」と言われることもよく見てきました。


やり方はいろいろあるのでしょうけど、正面切って戦うより仲良くするほう私の性格には合っていました。


上司だけじゃなくて、他部署の人とやり取りするのにも気を遣いながら、相手に嫌な思いをさせずに、私のやりたいことをやってもらう、みたいな(笑)。それがいいのか悪いのかは分からないけど、そうしないと会社に残れなかった気がします。


でも今はそこまでしなくてもいいようになってきましたね。私も今は言いたいことを言わせてもらっています。


今は、逆にその気の遣い過ぎがデメリットな気もしますね。


ありがとうございます。きっと、時代とともに処世術も変わってきますね。次回は、バリバリお仕事ができるようになってきた、30代からのお話を聞かせてください。

<次回はこちら → 〝ワークライフバランス〟は人生全体で取る!男女雇用機会均等法施行前に入社して勤続42年、田平さん・秋子さんに聞きました【2】


<聞き手>

F30プロジェクト 企画・運営
武田 明子

クリエイティブエージェンシーでコピーライターとして経験を積んだ後、2017年から「女子部JAPAN」のコンテンツ企画・制作に携わる。本音と建て前の入り交じった女性の生の声を引き出す座談会やアンケート調査などを数多く実施。2022年からは「F30プロジェクト」の企画・運営に参加し、女性ミドルマネジメントへの共感型の取材を通して言葉にしにくい声を引き出している。
◆F30プロジェクト 課題解決!ケーススタディ帳





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